Hironao Ashida

『芦田の毎日』

Society JA ↓ 286 episodi

2000年から書き続けているプログ記事(一部は2009年から始めたFacebookの記事)、あるいは、拙著『書物の時間』(1989年)、『『努力する人間になってはいけない』(2013年)、『シラバス論』(2019年)の一部をGoogleの「音声概要」による解説会話で再編したもの。会話音声上、一部、漢字などが正しく読めていない場合がありますが、お許しください。元記事の再現力は90%くらい。漢字の読み間違いは困りますが、〝理解力〟は〈人間〉よりもまともかもしれません。漢字の読み間違い、内容的な展開などにおいて、うん?と思われた場合などは元記事を参照して下さい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。※BLOG『芦田の毎日』のアドレ...

Autore

Hironao Ashida

Categoria

Society

Sito del podcast

podcasters.spotify.com

Ultimo episodio

11 lug 2026

Dove ascoltare?

I podcast nell'app Replaio Radio In arrivo

I podcast stanno per arrivare nell'app. Installala ora e scopri per primo un modo tutto nuovo di vivere i podcast

Scaricala su Google Play Installala gratis Android quasi 10 mln di download · valutazione 4,8 iOS in arrivo

Episodi

くだらない授業(5) — 英語表記か、カタカナ表記か 12.06.2025

本書「英語とカタカナ:自動車整備教育の意義」は、自動車整備の授業評価と教授法の改善について論じています。特に、K先生とH先生の授業におけるパワーポイントの進化に注目し、画像、文字、実物の組み合わせが理解を深める上で効果的であることを指摘しています。著者は、カタカナ部品の名称を英語の意味と結びつける教授法を推奨しており、単なる音での記憶ではなく、意味での理解が学生の学習負担を軽減し、自動車整備業界のレ...

くだらない授業(4) — 作品批評の諸課題 12.06.2025

この論文は、作品批評の授業における課題と、それらを克服するための具体的な方法について論じています。特に、デジタル作品の特性を活かした「変形」や「シミュレーション」といった実践的な批評方法が、学生の関心と理解度を高め、従来の一方的な印象批評の限界を超える可能性を強調しています。また、作品をグループ化し、普遍的な学習課題と結びつけることで、個別批評の偏りを是正し、より全体的な評価を実現することの重要性...

くだらない授業(3) — 専門用語の歴史性について 12.06.2025

本書は、つまらない授業の根源について考察しています。著者は、専門用語の単なる羅列がいかに学生の理解を妨げるかを指摘し、「TCP/IPとはインターネット上の事実上標準のプロトコル」という説明を例に挙げてその不十分さを批判しています。彼は、言葉の定義だけでなく、その言葉がどのように生まれ、使われるようになったかという「歴史」を学ぶことの重要性を強調しています。この「歴史」は、単なる過去の出来事ではなく、私た...

くだらない授業(2) — CPUはハードウエアか 12.06.2025

「CPU: ハードウェアかソフトウェアか?」と題されたこの文章は、CPUがハードウェアとソフトウェアのどちらに分類されるべきかという問いを探求しています。著者のアシダヒロナオ氏は、一般的な「CPUはハードウェアである」という定義を批判し、特に初級システムアドミニストレータ試験の教科書の記述が無益であると指摘しています。彼は、「装置」という言葉が持つ物理的な意味合いが、CPUの本質を理解する上で誤解を招く原因とな...

くだらない授業(1)— インテリア科編 12.06.2025

アシダヒロナオ氏による「インテリア科「椅子制作」授業評価」は、インテリア科2年生の椅子制作実習におけるプレゼンテーション授業の評価を扱っています。筆者は、この授業が**「高度人材」の育成には不十分であり、過去3年間の教育改革が反映されていないと指摘します。具体的には、プレゼンテーションの評価基準が不明確で個人的な感想に終始している点や、椅子の実用性(座れること)よりも個性が重視されている点を問題視して...

追悼・ホイットニーヒューストン 、あるいは二作目の苦悶 12.06.2025

この文章は、ホイットニー・ヒューストンの音楽キャリアと個人的な苦難に焦点を当てたものです。著者は、ヒューストンのセカンドアルバム『ホイットニーⅡ』の重要性を強調し、「二作目の苦悩」というテーマを通して、アーティストがヒット作の後に直面するプレッシャーを考察しています。また、ヒューストンの財政的な困難や私生活についても触れつつ、彼女の音楽的才能とアーティストとしての価値に対する揺るぎない尊敬の念を表...

「ある」と「べき」の哲学(法政大学「哲学」第1回講義) 12.06.2025

この講義は、1988年に法政大学で行われた哲学の授業の録音を編集したもので、**「ある」と「べき」という哲学的な問いを中心に展開されます。著者は、「哲学とは始まり(アルケー)を探究する学問である」と定義し、物質の究極的な分解を通じて宇宙の根源に迫る物理学の例を挙げ、あらゆる存在の「始まり」を問う哲学の野心について説明します。さらに、戦後の日本における「唯物論と主体性」を巡る思想家たちの議論を取り上げ、「...

教育格差、選抜格差、メリトクラシー 12.06.2025

芦田宏直氏の「選抜における格差とメリトクラシー」は、日本の教育における入試制度、特にAO入試に焦点を当てています。この文章では、名門私立学校と底辺大学の入試がともに「人物評価」を重視している点を指摘しています。しかし、その評価基準には大きな違いがあり、前者は家族の文化的背景や「ハビトゥス」を重視する一方で、後者は学生個人の資質に焦点を当てています。著者は、メリトクラシー(努力主義)が本来、家族的な要...

「教育の質保証」の取り組みとコマシラバス 12.06.2025

大学教育の質保証:人間環境大学、三つの画期的な取り組み 提供された文章は、大学の教育の質保証に関する革新的な取り組みについて詳述しています。筆者は、「コマシラバス」の導入によって、各90分授業で学生が何を学ぶべきか、そしてそれが期末試験にどう関連するのかを明確化する重要性を強調しています。さらに、生成AIを活用した「テストワーク」により、学生が自己主導で多様な模擬試験を生成し、知識の定着を図る新しい学...

息子の結構式披露宴における謝辞 12.06.2025

提供された文章は、新郎による結婚式のウェルカムスピーチと謝辞です。新郎はまず、ゲストへの感謝と、皆が楽しめるよう準備を重ねた披露宴への思いを語ります。続く謝辞では、両親への深い感謝を表明し、特に哲学者である父の独特な教育法と、難病を抱えながらもポジティブな母の寛容さが、彼の人格形成に大きな影響を与えたと述べます。さらに、妻となる「なつこさん」の想像力と、彼を「ありのままの自分」でいさせる存在である...

「検索バカ」と反ファンクショナリズム(吉本隆明の〈自己表出〉論について) 12.06.2025

筆者は、テレビで放映された思想家・吉本隆明の講演に深く感銘を受け、その内容を起点に自身の思索を巡らせます。特に、吉本が提唱する**「自己表出論」を巡り、読者や学術界における「検索バカ」や「解説書バカ」といった現代の読書・思考の問題点を鋭く批判しています。これらの「ファンクショナリズム」に陥った思考は、情報検索によって個々の事柄(述語)を積み重ねても、その本質(主語=固有名詞)を理解することはできない...

私立中学受験に反対する 11.06.2025

著者の「私立中学受験に私は反対する」からの抜粋は、私立中学校への進学に対する著者の強い反対意見を提示しています。著者は、多様な人間関係や社会経験を公立中学校で積むことの重要性を強調し、私立学校での教育は子どもを隔離し、大人になってからの社会性を阻害すると主張しています。また、学歴社会における試験制度、特に○×試験が民主的な選抜方法であったことを論じ、親の社会的地位や家庭環境を問う私立学校の選抜方法を...

私立中学受験と家族のnobility 11.06.2025

この文章は、筆者の妻が電車で耳にした会話について綴られています。ある母親が、第一志望に落ちた息子が第二志望の私立高校に合格し、入学金を払ってきたことについて知人に話していました。母親は、都立高校への進学は避けられたことに安堵する一方、息子の第一志望不合格を悔やみ、周囲に同意を求めている様子でした。その会話を聞いていたらしい一人の男子生徒が、母親の息子への無理解を激しく非難し、怒りをぶつけました。筆...

フンボルト理念における〈教育〉と〈研究〉 11.06.2025

この学術的な文章は、大学における教育と研究の関係について論じています。特に、セネカの「教えることによって学ぶ」という言葉と、フンボルトの大学理念を中心に考察を展開しています。著者は、安易な啓蒙主義や学生のレベルに合わせた教育を批判し、専門性の探求と研究が教育の根幹であると主張しています。また、フンボルト理念が研究と教育の分離を意図したものではないことを強調しつつ、その理念の歴史的な変遷や解釈につい...

阿久悠「ざんげの値打ちもない」の世界 11.06.2025

追悼記事は、作詞家である阿久悠氏の死を悼み、彼の代表作である**「ざんげの値打ちもない」について語っています。著者は、この曲が高度経済成長期において無反省に幼児化していた社会に対する強烈なカウンターパンチであったと考えています。歌詞の圧倒的で斬新な表現や、北原ミレイによる歌唱、そして「あれは」や「そこのところ」といった日常的な言葉を歌詞に取り入れた阿久悠氏の革新性**を高く評価しています。

〈人生〉を語ってはいけない 10.06.2025

筆者は、闘病中の妻、成長した息子、そして自身の変化した生活について語っています。彼は、妻の病状の変動や、家事、特に料理への自身の適応を詳細に記述しており、これらを日常の**「変化」として捉えています。筆者はまた、父の死に対する記憶の曖昧さや、家族の関係性が単なる思い出や変化に左右されない本質的なつながりに基づいているという自身の哲学を展開しています。そして、人生を一定の終着点へ向かう線形なものと見な...

学歴・超高層・ポストモダン 10.06.2025

この文章は、学歴社会と超高層建築を近代社会の二つの柱として捉え、それらがどのように伝統的な身分や階級、そして生活から人々を解放し、自由と主体性を生み出してきたかを論じています。学歴社会は試験によって個人の能力を評価することで出身を相対化し、超高層建築は一つの建物内に多様な機能を集約することで生活による階級の露呈を防ぎます。筆者は、これらが近代の特性であり、その終焉、つまりポストモダンの到来を考察し...

デリダのフッサール理解について — 表現と意味(1982年) 10.06.2025

芦田宏直氏の論文(「デリダのフッサール理解について」1986年))の抜粋は、ジャック・デリダによるエドムント・フッサールの現象学の解釈に焦点を当てています。特に、デリダが問題視する**「意味の還元」や、フッサールが「指標」と「表現」を区別する動機を詳細に論じています。デリダは、フッサールが独話や内面的言語の事例を通して「自己への現前」という概念を特権化しようとしたと見なしており、その際に現れる「意味」と...

〈序文〉とは何か — 『書物の時間』(1982年) 10.06.2025

この哲学的な序文は、「哲学とは何か?」という問い自体が抱える困難を探求します。著者は、この問いに対する答えが特定の哲学や個人の主観に還元されてしまう可能性や、「誰もが知っている」参照が無意味であることを指摘します。また、哲学の**「入門」書が、実際には入門以前の哲学を求めるという逆説を論じ、本文と序文の関係を通して、書物の形式と内容の分離の難しさを考察します。最終的に、この問いは凡庸さを受け入れつつ...

学生は〈顧客〉ではない 10.06.2025

この文書は、学校教育における生徒を顧客とみなす考え方を否定し、その目的について論じています。筆者は、学校教育の役割はまだ学ぶ主体が完成していない子どもたちの「学ぶ主体」を形成することであり、これは経済的な豊かさによるものではないと主張しています。さらに、**学歴社会(メリトクラシー)**が、家庭環境によらず個人の能力によって新たな階層を形成するリセット装置としての役割を持っていたことを説明しています。...

病院は面白い 10.06.2025

この記事は、病院を「人間の博物館」と捉えるユニークな視点を示しています。病院は老若男女、貧富の差などあらゆる人が集まる場所であり、そこでは生死という必然性の前で人間は平等になるため、世俗的な差異を超えた多様な人間模様が見られると述べています。著者は、死という強制力が病院に多様な人々を引き寄せる最大の理由であるとし、人間の多様性を知るには病院を訪れるのが最も良い方法だと主張しています。また、個人的な...

「不治の病」とは、死ぬという病気のこと 10.06.2025

この文章は、人間が死ぬことの普遍性について論じています。著者は、「不治の病」とは治らない病気のことではなく、すべての人間がかかっている「死」そのものであると主張します。病気や健康状態に関わらず、すべての人間は生まれたときから「死の宣告」を受けており、徐々に身体が衰えていくという事実を強調しています。この認識に基づき、病人と健康な人を区別することや、病人に特別に優しくする必要はないと述べています。む...

台風とキリスト教とニーチェと 10.06.2025

この文章は、著者の妻の闘病生活について綴られています。特に季節の変わり目や低気圧による体調の悪化と、それが家庭生活にもたらす影響が語られています。著者は、病人は人前では元気でいるべきという持論を展開し、人前でだけ辛そうな態度をとる人々をニーチェのキリスト者批判を引き合いに出して批判しています。そして、本当の孤独や悲哀、そして本当の元気は、人に見られていないところで生まれるという考察を述べています。

季節はずれの桜と二匹の犬 10.06.2025

この文章は、季節外れの桜と二匹の犬との出会いを描いています。著者は、芦花公園での花見の帰り道で「犬ゆずります」の張り紙がある犬に出会い、その寂しげな様子に心を痛めます。また、別の日に散歩できない老犬と飼い主にも遭遇し、彼らの困難な状況を描写しています。これらの犬たちの姿を通して、著者は生命の終わりや適切な散り時について深く考えさせられているようです。

生活苦とは、何か 10.06.2025

筆者は、妻の突然の入院を通して、息子と二人きりでの生活を余儀なくされた体験を語ります。その中で、食事、掃除、洗濯といった避けられない「生活」の営みがいかに大変で、不快感を伴うものであるかを痛感します。「生活苦」とは経済的な問題だけでなく、この不可避な作業に追われることの苦しさであると定義し、選択肢に溢れる「仕事」や「情報化社会」と対比させます。そして、家庭はこうした避けられない「生活」の場であり、...

Ascolta il podcast 『芦田の毎日』 su Replaio

Radio e podcast in un'unica app - gratis e senza registrazione. Installala oggi e non perderti il lancio

Scaricala su Google Play

Replaio non è un editore di podcast; i nomi dei programmi, le copertine e l'audio appartengono ai rispettivi autori e vengono distribuiti tramite feed RSS pubblici