永瀬清子の世界
永瀬清子の世界
岡山県出身の詩人・永瀬清子さんの詩をRSKアナウンサー 小林章子の朗読でお届けします。どんな景色が心に浮かぶでしょう?人生のステージや生活に合わせて読むことができる永瀬さんの詩の世界。多感な時期の悩み、結婚、両親、夫や子供など家族のこと、生活の中での驚きや発見、山や川、植物や天体など自然について、世の中について、老いについて。永瀬さんの詩は、過去の自分を振り返ったり、これから行く道の道しるべにしたり、人生を一緒に歩いてくれるようです。
Besuch unbedingt die Website des Podcasts und unterstütze die Macher: podcasters.spotify.com
Wo hören?
Podcasts in der App Replaio Radio Bald verfügbarPodcasts kommen bald in die App. Installiere sie jetzt und erlebe als Erster einen ganz neuen Blick auf Podcasts
Folgen
#137「この海の」 02.11.2026 4:11
この詩は、金沢で暮らした多感な時期に見たであろう日本海の美しさがモチーフになっています。「私」の中にある海の美しさは、現実の「この海の碧い美しい色」と「比べることは出来ない」ほどの美しさとして、心に刻みつけられていました。それは「息をひそめている」ように静かで、「月光のように蒼ざめている」とあるように、冷たく深い青さはどこか暗く悲しげです。そのうえ「鬣(たてがみ)をもった波濤(はとう)の変形」と高...
#136「辿る」 26.10.2026 4:11
題名の「辿る」とは、それぞれの生き方の違いを辿ることです。遠く離れて暮らす友達のことを思いながら、初めての稲刈りをする「私」。慣れない農作業で時間がかかり薄暗くなってしまいました。「刈られていく稲」は美しいけれども、意思もなく身動きもとれない姿が、「トルソ」すなわち頭や手足のない胴体だけの彫像にたとえられています。これは、洋裁をする「わが友」が「トルソ」に縫った洋服を着せかけていることの対比でしょ...
#135「短章『台風で』」 19.10.2026 3:56
台風で折れてしまったヒマラヤシーダーの回復を書いた短章です。半年で元通りの形に戻る生命力をヒマラヤシーダーの「祈り」と捉えています。具体的に目に見えるように未来の姿を描き、それに向かって進むことで現実にしているのです。困難や逆境にあってもそこから回復し乗り越えていく力を、象徴的に表現しています。永瀬さんは、自宅から岡山県庁までバスで通勤していました。毎朝、バスの窓から見える樹木は永瀬さんを楽しませ...
#134「履歴」 12.10.2026 4:10
詩が「朝紅(あさやけ)も夜の闇も」降りてきて、「地に噴きあげた泉」のように詩を書いた日々。「無限に砂がつまり」詩が書けない日々。若かった頃と年を重ねた今を比べながら、「私」は詩を書き続けた日々を振り返っています。「本当は詩を書くことも好きではないのです」は、心からの「私」の言葉なのでしょうか。この言葉には、詩に対する複雑な気持ちが混じり合っているようです。「悲しみとたのしみは同じものです」と書かず...
#133「短章『お皿』」 05.10.2026 4:11
秋のお祭りの準備で忙しいけれど心躍る時間。娘とお鮨を作るうれしさで、いつも以上に「夕ぐれの空と光線」の美しさを感じていたのかもしれません。そうした喜びが一転したのは、「好きなお皿が、好きなお皿にぶつかって割れ」てしまったからです。そして「私」は母であることを忘れ、娘のことよりも、割れたお皿の思い出が瞬時に駆け巡り、「身をよじる執着の気持」にとらわれてしまうのです。瞬時に「惜しみの言葉がどんどん出て...
#132「短章『花と枝』」 28.09.2026 4:11
永瀬清子は、道ばたに咲く草花を見つけると、植物図鑑で調べていたことを随筆などに書いています。見知らぬ花の名前を知ることから始まる、「ひろい世界の不思議を子供の心にともそう」、「云いがたい愛を名知らぬものに託そう」という思いには、未来へのまなざしが感じられます。今日の夕ぐれに「私」が採ったのは、「水竹葉(いぼくさ)の花」でした。水田の畦によく見られる草ですが、この日「私」は、初めてその美しさを発見し...
#131「土砂について」 21.09.2026 4:11
自然の前では、「人々」がどれほど知恵を集めても、かなわないことがいくらでもあります。永瀬さんはこの詩で、「土砂」を擬人化して「人々」と比べながら、「土砂」になりきってその気持ちを伝えています。いつもは静かにそこにあり、当たり前の存在である「土砂」。しかし、ひとたび大雨となれば、どれほど力を尽くしても「人々」にできることには限りがあります。「土砂」の行き先は地形によって変わりながら進み、「自分で自分...
#130「不完全な曲」 14.09.2026 4:11
友達が「私」にくれた琴は、昔弾いていた琴よりもずいぶん小さな琴です。「私」が、その琴を「飢えかわく人のように」弾く姿は、これまで心の中に溜まっていたものが堰を切って流れ出すかのようです。そして心はどこか遠くの世界へ向かって、はばたいていく力を得たかのようです。戦いの続く「修羅世界」に生きる「私」。琴を弾いている時だけは、戦いを忘れられるのでしょう。自分が弾くには小さすぎる琴で、いろいろな鳥の曲を時...
#129「短章『幼かりし日 e 瓦斯燈』」 07.09.2026 4:11
永瀬清子さんは、2歳から16歳の間金沢で暮らしました。明治の終わりから大正時代にかけてのことです。金沢では、この世の神秘や不思議を感じさせる出来事に触れることがあり、それを一種の皮膚感覚として受け取っていたようです。昔話、グリム童話、ペロー童話、神話などを読み、古くから伝わる子守唄やわらべ唄を聞いていたこの頃の永瀬さん。「自分たちもそんな話をひとりでに空想し云いつたえた」ほど、そこに暮らす人々にとっ...
#128「出ていった三章 a 出ていった」 31.08.2026 4:11
道ばたからふと見えた「門から座敷まですっかり見えている」家の中。家から出ていったのは、そこに暮らしていた誰かで、この世を去ってしまい帰ってくることはありません。空っぽになった家は、これから誰が住むのかもわかりません。門のそばの紫苑がうつむいているのは、枯れてしまったからなのでしょう、まるで帰らぬ人の姿のようです。その家を見た「私」は、「赤坊を生んだばかりの女のようだ」と思うのです。出産によって「女...
#127「一九八八年夏 ⅱ あじさい」 24.08.2026 4:11
永瀬清子は、植物を愛しており詩には百種類を超える植物が登場します。アジサイもそのひとつです。この詩では、友達から貰ったアジサイを「長いつきあい」と表現しており、アジサイを贈ってくれた友達への親しみとともに、アジサイそのものにも友達のような温かさを感じている「私」のまなざしがあります。だからこそ、八重に咲くアジサイを水切りして生け直し、大切に世話をするのでしょう。「藍の色の濃淡で もう十日も彩ってい...
#126「短章『平和の詩について』」 17.08.2026 4:11
平和について詩を書くことの難しさを語る短章です。戦争の時代を知る人が、知らない人たちに対して「なぜ戦争が恐ろしいのか、雪崩か渦に巻きこまれるようにすべて傾いたのか」を伝えるためには、「説得力」や「必死」の思いが必要だと述べます。さらに「悩みも、うめきもなく合言葉を入れる」ことで、大義名分が立ったと考えることにも疑問を呈しているのです。このことは、私たちが、今なお世界で起きている戦争について知り、平...
#125「夏草が」 10.08.2026 4:11
夏は、草が勢いよく繁っていき地面が見えません。抜いても刈り取ってもすぐに新しい草が伸びてくる様子は、まるで何かに追いかけられているようです。この状態は、何をどう書こうかと迷う「私たち」の混乱した頭の中の絡まり合った草むらのようです。「私たち」は、その草むらの中をかき分けるように、まず書いてみることで、初めて自分が書こうとしていたことが判り「新しい道にやっと出会う」というのです。つまり「判らないから...
#124「夏日の蛇」 03.08.2026 4:11
ある夏の日に見つけた〈蛇〉をめぐる「私」と「子供」との日常の一コマです。「藍と青の絣模様」ならば、アオダイショウなのでしょうか。同じ〈蛇〉でも「子供」の感じ方は、昨日と今日では正反対になっているのです。単に観察するだけならば「興味ふかく」思うだけでも、テリトリーに入ってこられると落ち着いてはいられません。一方で〈蛇〉は、気にも留めず「きわめて悠然と」叢の中に消えていきます。それは、世間との距離の取...
#123「短章『痛覚』」 27.07.2026 4:11
自分の痛みを伝えることは難しいことです。感じた痛みを言葉にしても「他人にはただ言葉であり、目盛が見えぬ」ために、相手は想像するほかありません。もしかしたら、想像さえしてもらえないこともあります。さらには、痛みを訴えた途端、それをきっかけに相手の自分語りへと話がすり替わり、うんざりしてしまうこともあるでしょう。こうした痛みも相手に深く届くことはなく、ただの話題として消費されていきます。だからこそ「(...
#122「短章『塩・砂糖』」 20.07.2026 4:11
塩と砂糖を間違えるような、うっかりミスは誰にでもあることです。そうした間違いは、そのまま単なる失敗として片付けられ、「私」が不注意な人間だという評価だけで終わってしまいがちです。どうして「私」がうっかりミスを起こしたのか、他の誰かがその理由を日常生活の中で考えることがあったとしても、それは表面的なものにとどまるでしょう。ところが「私」自身は、起きた出来事の背後にあるものや、自分が背負っているものと...
#121「無色ノ人」 13.07.2026 4:11
永瀬清子は、随筆「私の詩」(『農民芸術』第6集 1948年3月)に、「賢治さんにむかつての詩を私は時々書きました」と3篇の詩を挙げており、詩「無色ノ人」は、そのうちの1篇です。「無色ノ人」は、「我」にとって「絶壁ノゴトクソバダチテ」と表現されるほど大きな存在です。そのうえ「我」が、深いかなしみにくれたときには、「無色ノ人ノ懐ニナクナリ」とあるように、大いなる拠り所ともなっています。この詩は、カタカナと漢字...
#120「風は」 06.07.2026 4:11
「風」と「私の詩」は、欠けているものを埋めようとするという点で共通しています。「西側の窓が開いていなければ/東風は入りません」とあるように、閉ざされていれば風は通り抜けられず、そこに開かれた場所があってこそ、はじめて風は吹き抜けることができます。「小さな流れのように」咲く朝顔もまた、「風」と同じく「ひきつけられる流れ」を体現しています。そして、「完全には開けないでいる」朝顔の花の姿は、まだ咲ききれ...
#119「短章『唇』」 29.06.2026 4:11
永瀬さんが暮らしていた松木の辺りでは、6月半ばくらいから田植が行われます。田植は永瀬さんにとって印象深い出来事だったようで、詩や随筆にもたびたび登場します。田植が終わったばかりの田に、二子に分かれた山の頂上が映り、唇のように見える風景は、後に詩「アンターレス」(『春になればうぐいすと同じに』)にも登場しており、永瀬さんが好んだ風景だったのでしょう。けれども、苗が生長して水面が見えなくなると、この風...
#118「短章『雨について』」 22.06.2026 4:11
「私」は、岡山から東京へ向かう新幹線の窓から、雨と一緒に旅をしているかのように景色をながめています。雨を追いぬき、追いつかれながら走る新幹線。雨に濡れた道路は紺色、小学生の雨傘の赤や黄色の色、雨は「大きな銀色のスカート」、それぞれが鮮やかな色とともに、景色が目の前に浮かび上がります。ていねいな描写を重ねた後、一息に発見を語るのです。それは、東京に着いた「私」は、雨は空から地面まで垂直に降ってくるの...
#117「合唱組曲『燃える故郷 ――六月二十九日の歌 一章 旭川』」 15.06.2026 4:12
永瀬清子さんは、1945年6月29日の岡山空襲を伝える合唱組曲「燃える故郷」の作詞を手がけました。作曲は木下そんきさん、初演は1981年6月、岡山合唱団によるものです。七章からなる組曲の第一章は「旭川」です。岡山県の三大河川のひとつである旭川が擬人化され、河の流れは岡山空襲の夜の出来事を「河はいまでもおぼえている」、「忘れずうたっている」と私たちに語りかけてくるようです。永瀬さん自身も戦争体験を詩や随筆などに...
#116「苔について」 08.06.2026 4:12
永瀬清子さんの小さなもの弱いものへのまなざし。そのまなざしが向けられたもののひとつにコケがあります。在野でコケの研究を続けた井木張二(いぎ ちょうじ)さんは、イギイチョウゴケの発見者で、岡山コケの会の初代会長を務め、終生コケの魅力を広く伝え続けました。永瀬さんに苔の魅力を教えたのも、この井木さんでした。永瀬さんは、井木さんの案内で京都の苔寺を訪れました。そこでの体験について、「苔を書くのは昔からの...
#115「夏花」 01.06.2026 4:12
詩「夏花」は、永瀬さんが赤磐で農作業をしていた頃に書いた詩です。「私」は、井戸のそばに咲きはじめた葵の花を見つけ、その美しさに目を留めます。花が咲き始める姿は、刻々と変わっていくので、その美しさを急いで絵に描いてとどめたいと願いました。けれども農作業にも、その時にしなければならないことがあります。サツマイモの苗を植えるのもその一つでした。そこで「私」は、紙ではなく「心の底にのみ」葵の花の美しさを刻...
#114「短章『右手』」 25.05.2026 4:11
「私」は〈右手〉が利き手なので何かをするときには、自然と〈右手〉を使います。疲れや痛みがあっても、左手よりも使いやすいために、かばいたい気持ちもありながら、つい頼ってしまうのです。〈右手〉は、「働きたがる」と「かわりたがる」という、相反する気持ちの間で揺れています。つまり〈右手〉は、休めず働き続けること、常に頼られ続けていることの象徴です。物事をスムースに進めるためには欠かせないのに、大切にしても...
#113「短章『紫』」 18.05.2026 4:12
話し始めた時に話の腰を折られる経験は、誰しも経験があるのではないでしょうか。「彼女」の言葉は、「私が詩人であるという事だけ知って」いるので、詩人ならばこう考えるだろうという思い込みでしかありません。そのために「私」は、「私のことばを本当に聴いたり待ったりするやさしさ(又はまじめさ)を持たない」と憤慨してしまうのです。「彼女」が、「私」の話そうとしていることをわかっているとばかりに話したり、そこから...
Ähnliche Podcasts
Replaio ist kein Herausgeber von Podcasts; die Namen der Sendungen, Cover und Audioinhalte gehören ihren Autoren und werden über öffentliche RSS-Feeds verbreitet